柳岡克子の生い立ち 48、薬局での撮影

14日、車での出勤の様子を撮影したいというので私の軽の車に大きなカメラをかついで相馬君が乗った。
私の車のハンドルの右側にはレバーが付いているのをアップで撮った。
狭くて窮屈な車の中でハンドルと足を別々に撮るというので何度も同じコースを回った。
薬局に着くちょっと前で相馬君を降ろして、入り口にカメラをセットして入るところから撮った。
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柳岡克子の生い立ち 47、NHK教育テレビの撮影始まる

6月12日、土曜日夕方、機材を積んだワゴン車がわが家に止まった。
織田ディレクター、相馬カメラマン、音声の高田君、大川運転手の4人と少し話して、わが家の家族と一緒に夕食を食べた。
カレー事件ではよく和歌山へ来ていたらしい。
NHKと書いた大きな車で放送が30分の番組とはいえ、映像の部分は10分ぐらいの撮影に4日も4人のスタッフを派遣して大阪放送局から和歌山まで来てくれるという、力の入れように皆が驚いた。
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柳岡克子の生い立ち 46、「きらっといきる」に出演決まる

東京での受賞式から帰ってしばらくは、練習に明け暮れていた。
5月半ば、NHK大阪放送局から電話があった。
昨年応募したNHK厚生文化事業団の作文で、2月に優秀賞をもらった私と佳作の1人が、4月から始まったNHK教育テレビの新番組「きらっといきる」に出演させてもらえるという。
毎週水曜日に午後7時10分から40分まで、障害のある人の生活や活動の映像を全国に流し、スタジオで3人の人とトークする番組だ。
この電話をもらうまで、番組のことを知らなかった。
その日から見始めてなかなかよかった。
私なんかがゲストでいいのかとも思った。
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柳岡克子のおいたち 45、NHK障害福祉賞優秀賞を受賞して

NHK厚生文化事業団が、障害のある人自身の貴重な体験記録や、障害児・者の教育や福祉の分野でのすぐれた実践記録などに対して「NHK障害福祉賞」という作文を募集していた。
1966年度に創設し、2015年度に50回を迎えた。
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柳岡克子の生い立ち 44、卓球と出会って学んだこと

パラリンピックヘの夢は夢として大きく持ち続けていたいが、実際のところ、日本選手団が約80人と仮定したとして、卓球で10人以上の選手は望めない。
夏の大会は種目が多いからだ。
陸上や水泳などいろいろあり、バスケットやバレーは1チームでも大勢になる。
だから、選考基準が厳しくなり世界を相手にメダルをねらえる人が選ばれることになる。
障害者スポーツがリハビリの域を越えて、競技性が高まりつつある。
今回のUSオープンは互いに助け合って楽しい思い出となったが、選考時にはライバルにもなる。
何とも厳しい世界である。
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柳岡克子の生い立ち 43、USオープンに出場して

私以外の選手は小さいころから卓球をしていて、事故や病気の後カムバックしたとか、仕事を辞めて毎日何時間も練習しているとかすごい方ばかりだった。
キャリアも練習量もとうてい及ばないが、忍耐力や何事にもチャレンジしていく精神など、私には見習うべき所がたくさんあった。
日常生活では私より、不自由であろうと思われる車いすの人達がどんどん世界の大会へ進出して、ポイントを獲得している。
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柳岡克子の生い立ち 42、パラリンピックをめざして

25名の日本選手団として一緒に行って、バスや飛行機の乗り降り一つをとってみても大変なことだ。
ボランティアなどはなく選手以外は団長と私の母を含め4人だけで、片方の手がなかったり、義足だったりで自分のことだけでも大変なのに助け合って荷物や車いすを運んだ。
1人が車いすの方を抱きかかえて座席まで運ぶ。
抱いている間に別の方が車いすのクッションを次に座る座席に置き換えなければ、床ずれができて困るそうだ。
29名の一行は皆が協力し合っての旅になった。
2人とも車いすの夫婦は、4台の車いすを車に積み込んで名古屋から成田までだんな様の手で運転する車で来ていた。
自分たちが乗る車いすが2台であとの2台はスーツケースを乗せる車いすだった。
それで飛行場に着いたらスイスイと移動していた。
前の車いすにはスーツケースを顔が隠れるぐらい乗せて、自分は後ろの車いすに乗って前の車いすを押す。
私も真似をした。
左へ曲がっていった。
当たり前だ。右手ばっかりこいでいたからだ。
その夫婦は2人とも左右の手を変えていた。
だからまっすぐ進んでいたのだ。
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柳岡克子の生い立ち 41、世界の壁

いつしか私は、パラリンピックに出たいと思うようになった。
パラリンピックに選ばれるには世界大会で何度も勝ってランキングポイントを取らなければならない。
国内の優勝経験者の強化合宿で、香港の大会に行った人の話を聞き、世界の壁の高いことを知った。
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柳岡克子の生い立ち 40、卓球の練習

仲よくなった障害者と話した。
卓球でいいボールが返せる人はその技術が上手なだけでなく、みんな精神的にとても強くてりっぱなことがわかった。
何年も病気と闘ってやっとスポーツと出会えたのが卓球だった方。
健常者でバリバリ働いていたときに交通事故で腰から下が麻痺して車いすの生活になってしまった方。
私にはとても耐えられないような苦労を乗り越えてきた方ばかりだった。
私は自分自身の弱さや甘えを痛切に感じとるとともに、家族や友人、学校や職場にいかに恵まれたかを改めて感じた。
今までは、障害者である自分がいやで、障害者であることを忘れようとしていた。
でも、離れられないのだから、これからは、逃げたり、悲しんだりせず、堂々と自分の障害とも仲良くつきあっていこうと思った。
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柳岡克子の生い立ち 39、わかやま卓友会に入って

まず練習を見学に行って、その場で入れてもらった。
卓球などできるとは思っていなかったが、私より体の不自由な人が生き生きとがんばっている姿に感動した。
私が2歳の頃、歩く訓練のため入院していた和歌山市にある琴の浦のリハビリテーションセンターの隣の体育館で、障害者が集まって練習していた。
月に1回、御坊から1時間かけて車を運転して練習に行った。
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