1566、先生の心配

そんな時

廊下を歩いていた先生がふと教室をのぞいて

私の席の当たりを見ると

やんちゃな子等が集まっていました。

私の姿は、廊下から見えませんでした。

先生は

きっとやんちゃな子等の集まりの中で

いじめられているのではないかと思ったそうです。

「お前等何してる?柳岡大丈夫か?」

と廊下から飛び込んできました。

私は、やんちゃな子等に一生懸命勉強を教えているところでした。

「何?先生、テストやさか皆で勉強してるんやで」

先生は、勘違いが分かりほっとした様子で

「そうかそうか、皆頑張れよ~」

と言って教室を出ていきました。

こんな感じで

やんちゃな子等と仲良くなり

いい関係を保つことができました。

1565、教室内塾

これは大変なことになった。

外したら今度こそ殴られるかもしれません。

私は全ての科目を一生懸命勉強して

授業を聞いていなくても

試験に出そうなところをわかりやすく説明し

覚えてもらうことにしました。

なんとそれが当たったのです。

これさえ覚えたらいい点が取れると言ったら

記憶力のいいやんちゃな子は

丸覚えしていい点数を取りました。

それからというもの試験前になると私の席の周りが

やんちゃな子等で埋め尽くされました。

何か塾みたいに楽しい昼休みを過ごしていました。

1564、テスト前

ある日

またやんちゃな子等に呼ばれました。

「ちょっと話がある」

「何ですか?」

今度こそ、殴られるのではないかと思いました。

定期テストの前でした。

「テスト、どこ出るか教えろ!」

「えっ!はい、でも出るかどうかわかりません。」

「山かけろ!」

やんちゃをしていても成績はいいのを取りたい。

普段授業を真面目に受けていないし

ノートも取っていないので何が何だかさっぱりわかりませんでした。

でも、親には良い所を見せたい。

そんな欲もあって

私に試験前に山かけを頼んできたのです。

1563、不良の美学

やんちゃな子等は、家庭的にも問題を抱えていることが多く

誰かに認めてもらいたい、

声をかけてもらいたい。

と思っていました。

そんな中、優しく声をかけてもらえているのは足が不自由な私だったのです。

むかついたことでしょう。

やんちゃなことをすれば

曲がりなりにも

先生の注目を浴びることができます。

怒られることにも

関心を持ってもらえたという喜びに浸れるのです。

そのころの私はそんなやんちゃな子等の気持ちを理解することができませんでした。

やんちゃな子等にとって

私のようなちょっと突っついただけで

こけるような弱い人に勝っても

自慢になりません。

戦いを挑むなら

柔道や空手など強い人と喧嘩して勝った方が格好いいからです。

今の時代のように無茶苦茶な戦いはせず

手加減や美学があったのです。

ですから

やんちゃな子等にいじめられることはなかったのです。

今ネット上での陰湿ないじめなど

考えられない時代でした。

1562、先生のひいき

ある日、恐れていたことが起こりました。

「ちょっと来い!」

「はい、何ですか?」

私は、殴られるのではないかと思いました。

「あんたなあ、足が不自由だからと言って

先生にひいきされてるのとちがう?」

「なめんなよ」

なめ猫が流行った頃でした。

私は、そんななめたくもない。

まして先生にひいきされているなんて

思ったこともありませんでした。

でもよく考えてみると

心当たりがありました。

それは、小学校の先生と中学校の先生との間での

丁寧な引継ぎでした。

中学校の先生は、

障害のある生徒を受け入れたことで

何かあるといけないので

事あるごとに

「大丈夫か?」

「いけるか」

「がんばってるなあ」

と私を励ましてくれました。

たぶん

そのことがひいきされていると

思ったのでしょう。

私は、ひいきしてほしいなんて思ったこともありませんし

むしろそんなに優しくしないでほしいと思っていました。

普通でいいのです。

あまり取り立てて優しくされると

かえって周りの友達から

ひいきとまではいかなくても特別扱いされていると思われるのが嫌でした。

1561、いじめの対象

卒業生が、授業中に運動場をバイクで

大きな音を出しながら暴走族のような

格好をして騒いでいたこともあります。

あるときには、ドアが外されていたり、

ガラスが割れていたりでおまわりさんが

現場検証をしていました。

おとなしかったり

おっとりしていたり

皆についていけなかったり

そんな人はいじめの対象になりました。

今と違って

目の前で見えるので

止めに入るクラス委員もいて

先生に注意されて収まる程度でした。

でも、格好いいなと思う反面

怖いと思うところもありました。

それは、やはり私が皆と同じように歩けなかったり

何かと目障りになっていたからかもしれません。

1560、荒れた中学校

さて、時代は昭和50年代のこと。

横浜銀蝿・積み木くずし・つっぱり・スクールウォーズ・校内暴力

などという言葉で思い出す方もいるかもしれません。

世の中のニュースは、青少年の非行が問題になっていました。

私の中学校ですが

なんと、当時大変荒れていました。

どの学年にも

男女にかかわらず

不良と呼ばれるやんちゃな生徒がいて

朝からスカートの丈が長いなど

服装や髪型チェックなどが父兄会の輪番で

先生方と校門の前に立っていました。

1559、先生の丁寧な引継ぎ

小学校の卒業式の訓示で

校長先生が

6年間頑張った私のことを取り上げてくださいました。

母が、ポータブルトイレを持って

中学校へ行きました。

父が、教室に一番近い女子トイレの壁に手すりを取り付けてくれました。

これで入学準備は完了です。

小学校の先生は

体の不自由な生徒を養護学校ではなく

普通の中学校へ送り出すことに対して

丁寧に引継ぎをしてくれたようです。

中学校の先生は

今までは、中学校から

養護学校へ編入学する生徒が多かったので

今回の私のケースは

初めてのことで

受け入れるにあたって気合が入っていたそうです。

1558、中学校へ入学

幼稚園の友達と同じ小学校に入れた喜びを

家族で分かち合いながら

あっという間の6年間でした。

県内でも生徒数が多くマンモス校でした。

1クラス40人学級の38人ぐらいで

6クラスありました。

ですから

周辺の小学校がいくつか集まって

1つの中学校へ行くのではなく

そのまま中学校へ行くことになりました。

6クラスで約230人。

同じクラスにならないと名前は覚えられないけれど

なんとなく顔なじみのメンバーでした。

私の場合は

小学校での成績もよく

体育以外はついていけたので

養護学校へ行かなくても

そのまま中学校へ入学できました。

1557、祖母のおかげで御坊市身体障害者福祉協会に入会

祖母の足の切断は

膝の下からでした。

膝の上からの切断の場合

義足を付けても

不安定でこける確率が高くなります。

座るときは、膝を曲がるようにして

歩く時

ちょうつがいで固定します。

御坊市の御坊市身体障害者福祉協会の私の後に

会長を引き継いでくれた方は

膝上からの切断です。

ですから片方杖をついています。

同じ義足でも

切断の場所によって

違うということも

大人になって知りました。

祖母は

78歳の時

一番くつろいだお風呂で

眠るように亡くなりました。

祖母が亡くなって

私も御坊市身体障害者福祉協会に入会し

祖母のことを知っている人たちの話から

祖母の活躍を知り

改めて尊敬しました。

社会のため

障害者のために

出来ることをする。

亡くなってから見習うべきことを学びました。

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