柳岡克子の生い立ち 63、御坊駅のバリアフリー化に取り組む

平成16年4月29日の御坊市身体障害者福祉協会の総会において会長に就任させていただき一番の目標として掲げたのが、御坊駅にエレベーターを設置してもらうことだった。
私たち障害者の外出には御坊駅の階段が大きな障害になっていた。
しかし、取り組み始めたものの、会員は皆体が不自由で署名を集められなかった。
そこで趣意書を作り、各種団体・企業様へ郵送にて団体賛同書をいただいた。
60もの団体が趣旨に賛同して下さったおかげで、8月3日付けで当時の宮田敏彦駅長に要望書を提出させていただいた。
要望は、①御坊駅構内にエレベーターを設置していただきたい
②エレベーター設置実現までの代替策として、階段を利用するのが不自由な人のために、介助型階段昇降機または、いす式階段昇降機を設置していただきたい
③階段昇降機設置の代替策として、2つのプラットフォームを部分的にスロープ化し、駅長の許可を得て、線路を横断できるようにされたい
④御坊駅正面入口の階段に手すりをつけていただきたい。
の4つだった。
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柳岡克子の生い立ち 62、収益事業を開始

会員の減少は会費収入を減らす。
補助金も年々減っていく。
このままでは会の運営に支障をきたす。
そこで収益事業を導入した。
私の父は、和歌山県庁を退職した後、御坊市障害児者父母の会の会長になった。
母が障害児の親として会員になっていたが、父と交代した。
その後和歌山県障害児者父母の会連合会の副会長となった。
そこで他の市町村の現状を聞き収益事業の情報を得た。
御坊市所有の施設に自動販売機を設置し、売り上げの数パーセントを会に入れてもらうという契約を障害児者父母の会と一緒にした。
おかげで会費は減っても年間の行事の費用を賄うことができるようになった。
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柳岡克子の生い立ち 61、個人情報保護法の壁

広島での全国身体障害者スポーツ大会に出場したことから御坊市身体障害者福祉協会に入会していた。
その後、肢体不自由部会長となって、数年の間、会のことを学んできた。
年間行事や他団体との交流などもあり、和歌山県身体障害者連盟の先輩方にもかわいがってもらった。
私が入会した頃は、300名ぐらい会員がいた。

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柳岡克子の生い立ち 60、様々な障害者と出会って

私は、与えられたお役だから張り切ってがんばった。
助かった命だからこれ以上の欲はなく皆に喜んでもらえることを考えた。
カラオケ大会を企画した。
でも「私たちは音楽が鳴っても聞こえない、歌いたくても歌えない」と聴覚障害者からクレームが来た。
私は、音楽が聞こえる。歌が歌えるから聴覚障害者の気持ちがわからなかった。
聞こえること、しゃべれることは当たり前で感謝すらしたことがなかった。
改めて自分は足が不自由なだけで不幸だと思っていた考え違いを反省した。
それでマジックのショーをやってもらおうと思って手品ができる方に来てもらった。
そしたら「私たちはハートがスペードに変わっても見えない、鳩が飛び出て来ても見えない」と視覚障害者からクレームが来た。
皆に楽しんでもらう企画を考えることは難しかった。
障害によって不自由なところが違うからだ。
でもそういった団体の役をさせてもらうことで私自身も勉強になり成長させてもらった。
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柳岡克子の生い立ち 59、御坊市身体障害者福祉協会の会長になって

トイレで倒れる事が重なっても、いつも間一髪のところで助かった。
私にはまだ生きていかなければならない使命があるのではないかと思った。
今までの人生は、体に障害があっても家族や友人など多くの方の支えや理解のおかげで特に大きな病気もせず、無遅刻無欠席で学校に行け、大学も卒業できた。
卓球とも出会い勝ちたいとかパラリンピックに出たいとか夢を持つこともできた。
しかしよく考えてみれば、私一人の力ではない。
周りのおかげでここまでがんばれたことを考えればこれからの人生は自分のためだけに生きてはいけないような気がした。
お世話になった方に直接恩返しは出来なくても私がいることで困っている方や、悩んでいる方が少しでも楽しく楽になってもらいたいと思うようになった。
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柳岡克子の生い立ち 58、いただきますの心

痛み止めの薬は、出血の引き金となり、下痢だと思ってトイレに行くと便器が真っ赤になるほどの出血で貧血となりふらふらになった。
半年に1回ぐらいの割合で倒れた。
それでも間一髪のところでいつも助かった。
その時、私は生かされていると感じた。
小さい頃から、天ぷら、焼き肉、から揚げなど油っこいものが大好きだったが腸には良くなかったようだ。
入院すると何も食べられなくなった。
点滴だけで栄養をとるのがどんなにつらかったことか。
病院にいると、胃ろうで胃に穴を開けて口から物が食べられない方もいた。
口から食べられるということはありがたいと思った。
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柳岡克子の生い立ち 57、下血

卓球のしすぎで障害者になった方を笑ってしまったけど、私も卓球を一生懸命練習したので足が痛くなった。
病院へ行って痛み止めの薬をもらった。
薬剤師ですから、お医者さんに一番強い薬を頼んで飲んだ。
患者様には「胃を悪くするからあまり飲まないように」と言っているのに、自分は痛みに耐えかねてたくさん飲んでしまった。
それで座薬に変更してもらった。
「8時間おきに1日に3回にしてくださいよ」と患者様には服薬指導しているのに、私は6時間おきに使った。
腸が悲鳴をあげた。
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柳岡克子の生い立ち 55、皇太子様、雅子様と握手

広島での大会は、和歌山県選手団としてユニホームを揃え、強化練習もあり県庁前で壮行式もしてもらった。
バスで出発したが、大会中は選手村と家族は別行動となり、せっかくの応援に来てくれた父母と弟は開会式を見てもらっただけで観光していたようだ。
前夜祭で県外の方とも友達になれた。
プログラムに沿って練習や試合の日取りが決まっていた。
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柳岡克子の生い立ち 54、全国身体障害者スポーツ大会に出場して

私は、障害者卓球をはじめてしばらくして、平成8(1996)年、第51回ひろしま国体の後、開催された第32回全国身体障害者スポーツ大会「おりづる大会ひろしま」の和歌山県選手として選ばれた。
「いのちいっぱい、咲きんさい!」を大会スローガンとして、全国の身体障害者が集う祭典だった。
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柳岡克子の生い立ち 53、台湾・ベルギーの大会に出場して

USオープンの後、銀行の監督だった宮崎義仁さんが私の出演したNHK教育「きらっといきる」のテレビを見て全面的に協力してくれることになった。
国体でメダルをもらうほど優秀な選手が揃っていた銀行の練習場で元全日本チャンピョン佐藤利香さん(明徳義塾中高女子監督)の指導を受けることができた。
愛ちゃんが同じ仙台出身として尊敬する選手だ。
福原愛選手は小学生の頃、ミキハウスジュニアに所属し、王子卓球センターでサーブを習っていた。
大阪で障害者の大会がある時には父武彦さん、母千代さんとコーチの黄さんと4人で来てくれ試合を見せてくれた。
車いすの日本代表岡紀彦選手に惜しくも敗れ泣いていたのが印象的だった。
私は、毎週土曜日の朝、銀行で練習できることがうれしくて、自宅に帰っても忘れてはいけないと8畳と8畳の間のふすまを外して塾のテーブルを並べ復習をした。
卓球部の生徒が塾にいたので勉強が終われば相手をしてもらった。
今思えば銀行での練習は、すごい方々に囲まれての貴重な時間だった。
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