柳岡克子の生い立ち 16、薬学部に合格

振り返ってみると、私は生まれたときから医師や看護婦さんに命を救ってもらった。
だから医療の分野で恩返しがしたいと思った。
仮死状態で産まれた時からお医者さんに手術してもらい看護師さんやリハビリの先生にお世話になった。
多くの医療関係の人に助けていただいたこの命だから何か医療関係の仕事でお役に立てたらいいなあって思っていた。
年が明けても大学を選ぶに当たって医療の分野にするか理科の先生になるかで悩んでいた。
医学部は、私の成績と偏差値が費用のことを考えると国公立は届かなかった。
仕事ができるかどうかの体力も必要な看護師は難しかった。
出来れば和歌山県内で理科の先生をめざそうと考え和歌山大学の教育学部を受験するため、5教科7科目も勉強して共通1次試験を受けた。
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柳岡克子の生い立ち 15、受験勉強

3年生が近づいてきた。
進路を決める時期だ。
家族はこれから先の自立への道を模索した。
私は理科と数学が得意だった。
退屈な体育の時間のおかげで小学校の図書室の本を片っぱしから読んだ。
中でも「なぜなに事典」をよく読んだので理科が好きだった。
理科の先生になりたかった。
子どもたちに身の回りの不思議を感じてもらい「なぜ・どうして?」と考える子どもを育てたいと思うからだ。
それで理科の先生の免許のとれる大学ばかり探していた。
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柳岡克子の生い立ち 14、修学旅行

高校2年生になると修学旅行がある。
ある日クラスのホームルーム委員が「今日の放課後掃除が終わったらクラブに行く前にちょっとみんな集合してくれ。柳岡さんについての修学旅行の話し合いをするから残るように」と。
私はきっと長野の信州というところに行くことになっていたので、信州そばなのか野沢菜なのかお土産を何にしようか、いくらずつお土産代を集めたらいいのかという話し合いをしてくれる会だと思っていた。
私は小学校も中学校も母についていってもらって遠足に行った。
でも泊まり込みの修学旅行となると難しいのではとあきらめていた。
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柳岡克子の生い立ち 13、合唱部の思い出

日高高校に入ってからもドラムをやりたかったので、クラブ活動の勧誘のちらしを見て吹奏楽部をのぞいた。
しかし高校のドラムはスネアドラムではなくシンバルや大太鼓がついているドラムセットだった。
足が踏めなかった。
それで残念だが吹奏楽部をあきらめた。
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柳岡克子の生い立ち 12、義務教育卒業

多くの皆さんのおかげで御坊市の小中学校で義務教育を卒業することができた。
40年前にはバリアフリーなどという言葉もなかった。
私のように、地元の健常児と同じ学校で学ぶにあたり、先生や教育委員会など多くの方が私を見守ってくださったことは本当にありがたかったことだと改めて思う。
また、しんどいことがあっても学校生活を続けられたのは友達の励ましと父母の支えがあったからだ。
9年間1日も休まず通ったのは、私ががんばったからではなく、風邪を引こうが熱でうなされようが、朝になると母が学校へ送ってくれたからだ。
体育の授業があって学校に行きたくない日でも、不登校になれなかった。
不自由でも体調はよく、入院も通院もなく元気に過ごせたのもよかった。
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柳岡克子の生い立ち 11、音楽との出会い

そんな時、御坊中学校に吹奏楽部ができた。
楽器が届いた日、音楽のF先生は「見においで」と声をかけてくれた。
きれいな音色のフルートやピッコロを持たせてもらった。
親指が届かない。
クラリネットやサックスは小指が届かなかった。
トランペットやトロンボーンは重くて長い時間支えられなかった。
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柳岡克子の生い立ち 10、自転車に乗れない

一番悲しかったことは仲良かった友達から「○○ちゃんとこで一緒に宿題をしましょう」と誘われたときだ。
お菓子食べながらしゃべる宿題パーティーだが「放課後4時に○○ちゃんとこへ集合」ということになった。
みんな自転車で、学校から帰って宿題を持って自転車でその子の家に行ける。
誘ってもらってうれしかったし、私も行きたかった。
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柳岡克子の生い立ち 9、なにくその精神

また、やんちゃな不良に呼びつけられた。
「柳岡、ちょっと来い」と。
私は恐くて今度は本当に殴られるのではないかと思った。
試験前だった。
「試験どこ出るのか?」と聞かれほっとした半面、「これはちょっと外せないな」と思った。
「試験に出そうなところを教えてくれ」と。
やんちゃな連中もテストではいい点取りたい。
しかし授業をまじめに受けてないから大事なところがわからない。
そこで「ここのリアス式海岸という言葉、これは岩手県のギザギザの三陸海岸のことで和歌山県と似てるから、出そう」と。
それが出た。
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柳岡克子の生い立ち 8、不良の美学

しかし、中学生になると、思春期に入り、自分の体についてあらためて考えてみた時、頭ではがんばろうと思っていても、悲しくなることもあった。
当時、非行で問題となっていた中学校だけに、やんちゃな子が多く、いじめや暴力事件もよく見かけた。
先生方の私に対する親切がかえってやんちゃな連中からは私ばかりが先生に可愛がられているとうつった。
そして「柳岡、ちょっと来い」と言われた。
私はもう怖くって、いじめられるのじゃないかと思った。
「柳岡、おまえは足が悪いから先生にひいきされている。なめんなよ。むかつく」と言われた。
先生からの優しい言葉は、今ならありがたいと思うが、あの頃の私は「特別扱いしないで」と言いたかった。
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柳岡克子の生い立ち 7、中学校入学

御坊小学校を卒業して御坊中学校に入学した。
義務教育なのでそのまま行くことになる。
御坊小学校の先生は丁寧に御坊中学校の先生に「身体の不自由な女の子が中学生になります。なにとぞよろしく」と引き継いでくれたようだ。
そしたら御坊中学校の先生は、普通学級で不自由な生徒を教えるのは初めてで張り切った。
私の方は、父がトイレの壁に手すりを取り付けてくれ、ポータブルトイレを置きにいった。
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